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大阪地方裁判所 昭和36年(わ)5706号 判決 1966年4月13日

被告人 小巻敏雄 外三名

主文

被告人小巻敏雄を懲役四月に

同 大淵和夫を懲役二月に

同 今村正一を罰金三、〇〇〇円に

処する。

被告人小巻敏雄、同大淵和夫に対しこの裁判確定の日から一年間右各刑の執行を猶予する。

被告人今村正一において右罰金を完納できないときは、金五〇〇円を一日に換算した期間同被告人を労役場に留置する。

訴訟費用中、証人岩田林光に支給した分(昭和三八年九月一〇日に出頭した分)は被告人小巻敏雄の、証人山田郁生に支給した分(昭和三九年一月二九日、同年二月一〇日に出頭した分)は、その二分の一を被告人大淵和夫の、その余を同今村正一の、証人細木孝雄に支給した分(昭和三九年五月二二日、同年同月二五日に出頭した分)は被告人大淵和夫の負担とする。

被告人小巻敏雄が、学力調査用紙を持つて校長室を出ようとしたテスト責任者岩田林光に対し暴行を加え、同人の公務の執行妨害したとの訴因、

同今村正一がテスト立会人宇野登の公務執行を妨害したとの訴因、

同寺本敏雄の教諭細木孝雄に対する公務執行妨害、傷害並びに建造物侵入の訴因、

については右被告人らは、いずれも無罪。

理由

(罪となる事実)

第一被告人小巻敏雄は大阪府立高等学校教職員組合執行委員長、被告人大淵和夫は同組合執行委員、被告人今村正一は同組合書記であつて、いずれも昭和三六年度全国高等学校学力調査を阻止する目的をもつて、多数の同組合員とともに調査実施当日である同年九月二六日、調査対象校に指定されていた大阪市旭区橋寺町四〇三番地所在の大阪府立淀川工業高等学校(定時制課程)に赴いていたものであるが、

一  被告人小巻敏雄は、同日午後五時三五分ごろから、同校校長室で右組合員数名とともに、テスト責任者である同校校長岩田林光ほか一・二名と学力調査について話合いに入り、その際被告人らの要求に応じ、右岩田が学力調査の問題用紙の包みを示し、同人がその用紙を各調査実施教室に搬入して学力調査を実施する旨、明らかにしたので、同人が校長室にとどまるかぎり、換言すれば問題用紙が校長室にある間は学力調査の実施はできないものと安心して話合いを続けていたところ、同日午後六時四〇分ごろに至り意外にも既に、別に用意された問題用紙(組合員のテスト阻止を予想して、ひそかに給食用の食函中に入れて各教室に搬入されていたもの)で学力調査が開始されていることを知つて大いに驚き、且つ憤慨し、同人に対し奸策を用いて組合員を欺瞞した旨、激しく抗議するとともに、右欺瞞の事実及び被告人ら組合代表者との交渉の経過を組合員の前で説明するよう求めたが、同人が終始沈黙してこれに応じないので、同日午後八時前ごろに至り被告人としては自ら激昂するとともに憤激する多数の組合員に対し代表者としての面目を全く失つたとの責任感にかられ、また事態の収拾にも窮したため、とつさに椅子に坐つていた同校長の胸をつかみ「立て」と叫ぶとともに同人の顔面を平手で四回位殴打して暴行を加え、

二  被告人大淵和夫は、同日午後七時ごろ、大阪府教育委員会指導課の指導主事である山田郁生が同校中庭の校長室窓際附近から、校長室内における岩田校長と同人を難詰する組合員との様子をうかがつているのを目撃し、同被告人はじめテストの阻止に来ていた多数の組合員は、岩田校長の術策によりテストが何等の支障もなく実施されて、もはやこれを阻止する手段を失つてしまつたことに対する憤懣の情に駈られていた際であつたため同所においてその場にいた組合員十数名と意思を相通じ、同人をとりかこみ、他の組合員数名において、「ここにピケをはれ」「逃がすな」「校長室へひつぱりこんでやれ」等といいながら、その場から逃れようとする同人に対し、身体をすりよせ、手や肘でこずき、被告人において同人の左腕をつかんでゆさぶり、もつて数人共同して同人に暴行を加え、

三  被告人今村正一は、同日午後七時三〇分ごろ、同校校長室内の中庭に面した窓際において、中庭から校長室内の様子をうかがつていた前記山田に対し前記同様の事情から「お前もこつちへ入れ」といつて同人の右腕を両手で掴んでひつぱつて暴行を加え、

第二被告人大淵和夫は、大阪府教育委員会が発令した大阪府立八尾高等学校定時制課程教諭坂本正喜に対する懲戒処分徹回斗争の一環として、昭和三七年一月末ごろから八尾市安中二〇三番地所在の同高等学校に再三赴いていたものであるが、同年二月五日午後七時五〇分ごろ、同校定時制教務室において、同校定時制課程教諭細木孝雄に対し、ほか組合員数名とともに、生徒が右問題について、討議するためホームルームの時間を与えるよう、話合いを求めたが、同人がこれに応じないで、第三時限目の英語授業を続行すべく、「授業に行くのだ」といつて同教務室を出て教室にむかつたため、その後を追い、同校校長室前附近廊下において、同人が授業に行くことを知りながら、同人の胸部に自己の右肩部を一回つきあてて暴行を加え、もつて同人の公務の執行を妨害したものである。

(証拠の標目)<省略>

(判示第二の公務執行妨害の訴因について判示のように認定した理由)

検察官の主張によると、被告人大淵は、判示暴行を加える前、冠野啓三ほか数名と共謀のうえ、教務室内の出入口附近において授業に行くため教務室から出ようとする細木に対し、扉を閉鎖し、体で扉を押え(実行行為者冠野)、あるいは細木の体につきまとい、体をすりよせ、壁ぎわに押しやる(実行行為者、被告人大淵、寺本、板東)等の暴行を加えたというのであるが、本件全証拠によるも、被告人らが教務室出入口附近で細木の体につきまとい壁ぎわに押しやる等の暴行を加えたことを認めるに足る証明はない。尤も公判調書中の証人細木孝雄(第一九回)、同岩城国武(第二二回)、同冠野啓三(第三二回)の各供述部分、第三二回公判調書中の被告人大淵和夫の供述部分を綜合すると冠野が、教務室出入口の扉を閉鎖し、授業に行こうとする細木の前に立ちはだかつた事実が認められ、これは刑法九五条一項にいう暴行に該当するというべきであるが、右暴行を加えるにつき、冠野と被告人大淵との間に意思連絡があつたことを認めるに足りる証拠はない。したがつて被告人大淵が教務室内において細木に暴行を加えた事実は認められない。

他方、弁護人は、被告人大淵と細木とがぶつかつた事実はあるがこれは判示のような態様でぶつかつたものではなく、別の機会に細木の方からぶつかつてきたものである旨主張し、

被告人大淵和夫(第三二回)、同寺本敏夫(第三三回)の公判調書中の供述記載によるとこれに添う供述がなされているのであるが、標目記載の証拠によると、教務室内において、組合員と細木との間に前記紛争が生じたのは三時間目の授業の途中である七時五〇分ごろであつたものと認められ(この点についての証人冠野啓三(第三二回)、被告人大淵和夫(第三二回)、同寺本敏夫(第三三回)の公判調書中の各供述記載は時間の特定の根拠がきわめてあいまいで採用できない)、また細木と組合員との間に紛争が生じた際、被告人大淵が教務室内にいたこと細木と被告人大淵がぶつかつたのは当日一回であつて、場所は校長室前廊下であり時間も前記のように八時前であつたことは証拠上明らかであるから、弁護人の主張するような状況で細木の方から被告人大淵にぶつかつてきたものとは認められない。

(法令の適用)

被告人小巻敏雄の判示第一の一の行為は、刑法二〇八条、罰金等臨時措置法二条、三条一項一号に該当するので所定刑中懲役刑を選択し、その刑期範囲内で同被告人を懲役四月に処し、刑法二五条一項を適用してこの裁判の確定の日から一年間右刑の執行を猶予する。

被告人大淵和夫の判示第一の二の行為は、昭和三九年法律一一四号附則二項により右改正前の暴力行為等処罰に関する法律一条一項、罰金等臨時措置法二条、三条一項二号に、判示第二の行為は刑法九五条一項にそれぞれ該当するので、所定刑中各懲役刑を選択し、右は刑法四五条前段の併合罪であるから同法四七条本文、一〇条により、犯情の重いと認める判示第二の罪の刑に法定の加重をした刑期範囲内で同被告人を懲役二月に処し、同法二五条一項を適用してこの裁判の確定の日から一年間右刑の執行を猶予する。

被告人今村正一の判示第一の三の行為は、刑法二〇八条、罰金等臨時措置法二条、三条一項一号に該当するので所定刑中罰金刑を選択し、その金額の範囲内で同被告人を罰金三、〇〇〇円に処し、右の罰金を完納できないときは刑法一八条により金五〇〇円を一日に換算した期間同被告人を労役場に留置する。

なお訴訟費用については、刑事訴訟法一八一条本文を適用して、証人岩田林光に支給した分(昭和三八年九月一〇日に出頭した分)は被告人小巻敏雄の、証人山田郁生に支給した分(昭和三九年一月二九日、同年二月一〇日に出頭した分)は、その二分の一を被告人大淵和夫の、その余を同今村正一の、証人細木孝雄に支給した分(昭和三九年五月二二日、同年同月二五日に支給した分)は被告人大淵和夫の負担とする。

(昭和三六年一二月二七日付起訴状第一の二の被告人小巻に対する公務執行妨害の公訴事実に対して、判示第一の一暴行の事実のみを認定した理由)

本件公訴事実の要旨は、被告人小巻は、判示第一の一記載の日時、場所において、ほか組合員数名とともに、学力調査を実施していたテスト責任者岩田林光をとりかこみ、同人が右職務に従事していることを知りながら、「俺がやる」と申し向け、多衆の威力を示して同人の顔面を数回殴打し、よつて同人の右公務の執行を妨害したというのである。

よつて判断するに、

一  公務執行妨害罪の成立するためには公務員の公務執行中であること及び右公務執行妨害者において右の事実を認識することを要するから、先づこの点について考察する。

判示のとおり被告人小巻が岩田を殴打したとき、岩田は校長室内で椅子に腰をかけていたわけであるが、辞令(昭和三八年領第五三一号証六号)、昭和三六年度全国学力調査説明書(市町村教育委員会学校用)と題する書面(同領号証二号)、第九回公判調書中の証人岩田林光の供述部分によると、岩田は大阪府教育委員会から、淀川工業高等学校におけるテスト責任者として任命され、同校定時制課程における学力調査全般を管理、運営し、テスト立会人と協力して学力調査が適正円滑に行われるよう配慮し、具体的には調査実施中は(一)テスト補助員を指示して調査教室における調査の管理、監督を行なわせ、(二)テスト補助員の仕事が適正円滑に履行されるよう注意する職務権限を有していたことが認められ、第二五回公判調書中の新宮良正の供述部分、第三〇回公判調書中の被告人小巻敏雄の供述部分によると、被告人が判示暴行を加えた際学力調査は実施中であつたことが認められる。従つてテスト責任者としての岩田林光の前記職務権限の性質から考えると、学力調査実施中、岩田が校長室で待機していることは、それ自体その職務の具体的執行中に該るものと解すべきである。そして被告人小巻において岩田の右職務権限及びその際学力調査が実施中であることを熟知していたものと認められる(前記被告人小巻敏雄の供述部分)から、同被告人において岩田の右職務権限より同人が校長室に待機することが、とりも直さず、同人としての右職務の執行中であるとの認識を有したものと判断される。

二  次に公務執行妨害罪が成立するためには、その公務の執行が適法であることを要する。そこで本件公務の執行である学力調査実施の適法性につき以下順次検討する。(以下(一)(二)(三)は実体上の適法性、(四)は手続上の適法性)

(一)  (本件学力調査の主体)

公判調書中の証人岩田林光(第九回、第一三回)、同山田郁生(第一四回)、同宇野登(第一七回、第一八回)の各供述部分、原勝巳の昭和三六年一一月一五日付検察官に対する供述調書(二通)、小島修の検察官に対する供述調書、辞令(昭和三八年領第五三一号証六号)、昭和三六年全国学力調査説明書(市町村教育委員会学校用)(同領号証二号)、昭和三六年度学力調査の実施要領謄本(記録第二冊中編綴)によれば本件学力調査は文部省が生徒の学力の実体をとらえ、学習指導、教育課程及び教育条件の整備改善に役立つ基礎資料を得ることを目的とし、問題作成の方針は文部省の定める学習指導要領を基準とし、右指導要領に対する到達度をみるものであり、調査は全国的規模の一環として約一〇パーセントの抽出により指定学校、指定学年の生徒全員を対象として、調査期日、調査教科、時間割、試験問題、調査実施の組織及び役割、調査結果の処理法等一切を定めて、その実施方を大阪府教育委員会に命令し、右教育委員会は受命者の立場において、職務命令としてテスト責任者(岩田林光)、テスト立会人(宇野登)、テスト立会人補助者(山田郁生)を、テスト責任者は更に職務命令として補助員(淀川工業高等学校の教員)とを順次に義務づけ、最先端のテスト補助員たる教員はその職務として学力調査の実施に当つたこと、そして右教育委員会は右調査の結果を文部省に提出したことが認められる。ところで右各認定事実より本件学力調査者は誰であるかを考えるに、なるほど本件学力調査は大阪府教育委員会が調査を行い、文部省が右調査結果の提出を求めたという形式をとつているけれども、その実体は前記のとおりであるから文部大臣(文部省)が本件学力調査を行つた者であり、これを現実に実施したものは任意ではなく文部大臣の命令による義務として行つたものであると解するのが正当である。(なお起訴状も卒直に「文部省の昭和三六年度全国高等学校学力調査に際し」となし、また検察官も公判廷で当初は「テスト実施者は文部省である」旨言明しているところである。)

(二)  (本件学力調査の性質)

前掲(一)の各証拠並びに高等学校英語調査問題(昭和三八年領五三一号、証一九号)によれば、本件学力調査は文部省作成の学習指導要領に対する到達度をみるもの所謂学力評価のためになすものであり、またその調査の実体は文部省の定めた期日、教科、時間等に従つて、教員の監督のもとに、被調査者たる生徒は教室において授業時間中、教員が自己の教育活動について生徒の学習結果の状況を調査するのと本質的に差異のない特定教科即ち英語の試験問題(問題は前掲高等学校英語調査問題用紙において明らかな如く(1) ないし(10)から成り立つておりその内容も教員作成テストと質的に異らない)について解答するものであることが認められる。これは明かに生徒に対する学校教育の一環としての具体的教育活動の性格を帯び、教員の教育内容にかかわるものであり、教育課程の編成および管理としての意味をもつものと解せられる。

(三)  (本件学力調査に対する文部大臣の権限)

それでは文部大臣(文部省)にかような性質をもつ学力調査を行う権限があるであろうか。

学校教育法四三条(三八条、二〇条)、同法附則一〇六条によれば高等学校(中学校、小学校)の「学科及び教科に関する事項」は文部大臣がこれを定める旨規定している。右にいう「学科及び教科に関する事項」とは狭義の「教科」のみではなく「数育課程」を含む広義のものと解される「同法施行規則においても五七条、五七条の二に教育課程に関する規定をもうけている)ところから、同条により文部大臣に包括的な教育課程編成権が授権されており、従つてまたこれを根拠として生徒に対する教育活動、即ち教育内容にも立ち入る権限が存するとの考え方がある。

しかし現行法上文部大臣が教育課程に関し、いかなる範囲でいかなる権限を有しているかは、右の規定のほか、教諭は生徒(児童)の教育を掌る旨規定する学校教育法五一条(四〇条、二八条四項)の規定や、地方教育行政機関である教育委員会の教育課程に関する権限を規定した地方教育行政の組織及び運営に関する法律(以下地方教育行政法と略称する)二三条五号、三三条、四九条等の諸規定を有機的体系的に解釈して決定すべきものである。そしてその際重要なことは、これらの諸規定も、憲法およびこれと不可分一体の関係にある教育基本法(同法前文及び同法一一条参照)を主軸としてなりたつている教育法の体系の一部を構成しているのであるから、憲法および教育基本法の精神にしたがつて解釈されるべきことである。

まず教育基本法一〇条は、「教育は不当な支配に服することなく国民全体に対して直接責任を負つて行われるべきものである。教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備、確立を目標として行われなければならない」と規定している。この規定は、人格の完成をめざし、平和的な国家および社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期する(同法一条)ためには、教育が国民全体のものとして、不当な政治的、宗教的支配をうけることなく、その自主性が確保されるべきことを宣言するとともに、教育行政の任務とその限界とを明らかにしたものにほかならない。

今日の公教育制度のもとでは、国家や、地方公共団体は、教育について、もとより無関心ではありえない。憲法二六条の規定からも明らかなとおり、国家は国民がその能力に応じてひとしく教育をうけられるよう積極的な施策を行わねばならない。これは、国民に対する義務であつて、この意味で教育行政機関の果すべき役割は重大である。

しかし、教育そのものは、教育者と被教育者との自由な人格的、内面的な接触を媒介としてのみその本来の目的を達しうるものであつて、官僚的な統制や、監督をうけるに適さない。にもかかわらず従来の我国においては、国家統制的な教育行政制度、なかんづく中央集権的な官僚機構によつて教育が監督支配され、この支配が単に教育行政面ばかりでなく教育内容そのものにまでおよび、我国の教育をゆがめたことは顕著な事実である。教育基本法が、その前文、一条、二条において、教育の目的を明らかにし、八条、九条においてそれぞれ教育の政治的中立性、宗教的中立性に関する規定をもうけるとともに、一〇条において、教育行政と題し、前記規定をもうけているのも右の歴史的事実と無関係ではありえない。

したがつて、同条一項にいう「不当な支配」であるかどうかも、もつぱら教育の中立性を害する虞れがあるかどうかという点から判断すべきものであつて、政党その他の政治団体、労働組合、宗教団体、一部父兄等の社会的党派的勢力はもとより、国や地方公共団体のように法律上、教育に関して公の権力を行使する機関もまたその主体たりうることは当然である。

教育行政は「教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立」をその本来的任務とする。それは教育そのものの監督統制を行うことではなくて、教育者が、教育基本法前文、一条、二条等の規定する教育の目的にしたがつてその任務を遂行できる教育の諸条件を整備することであつて、その主たる内容は、教育施設の設置管理、教育財政、教職員の人事等教育の外的条件の整備のほか、教育事務の処理の適正をはかるため、広く教育に関する事項(したがつて教育内容等をも含む)について、指導、助言、援助を与えることである。この指導、助言権は指揮命令と異るから、法的拘束力をもたず、単に勧告の一種としての意味をもつにすぎないが、それが専門的見地から真に権威があれば、自らその実効性は確保されるわけであつて、教育行政機関の本来的権限として、教育の自主性を尊重しつつ、きわめて重要な役割をはたしうるのである。中央教育行政機関である文部省が、従来の権力的な指揮監督官庁から、右のような専門的技術的な指導、助言、援助を与える機関に質的に変つたことは、地方教育行政法四八条、文部省設置法四条、五条等の規定から明らかに窺えるところであり、又右地方教育行政法四八条二項二号が、教育課程、学習指導、生徒指導等の学校運営に関する事項について文部大臣に右の指導助言権があることを明定していることは、反面、右の事項については、指導、助言を与えることをもつてその本来的権限としているものと考えられる。

したがつて、文部大臣の前記「学科及び教科に関する事項」を定める権限は、それが右の指導、助言とは性質を異にした権力的な行政権限である以上、教育基本法一〇条等の趣旨からして、教育の自主性を阻害しない範囲の、全国的な公教育制度の秩序を維持するに必要な教育課程の基準の設定に限られるべきものと解される(文部省組織令九条一項口参照)。のみならず、憲法九二条、九四条、地方自治法二条三項五号、地方教育行政法二三条等の規定によると、我国の現行教育法制は、基本的には教育に関する事務をもつて地方の権限に属するものとしており、教育行政における地方自治の原理は、教育の民主化の重要な内容をなしている。

したがつて地方教育行政法二三条五号、三三条、四九条等によつて、地方教育行政機関である教育委員会に公立学校における教育課程の基準を設定する権限が認められている以上、文部大臣の前記教育課程基準設定権は、この地方教育行政機関の権限を害しない程度のものでなければならない。すなわち文部省の右権限は更にこの点からも制約を受けるのである。これらの点を綜合して考えると、学校教育法四三条(三八条、二〇条)にいう文部大臣の「学科及び教科に関する事項」を定める権限は中等初等教育における全国的画一性を維持するに必要な極めて大綱的な教育課程の国家的基準の設定(高等学校については、教科、科目、授業時間数、標準単位数など)に限られるべきものと解すべきである。

現行法上文部大臣に与えられている教育課程の基準設定権が右の範囲に限られるとすると文部省の定める学習指導要領も、右大綱的基準の枠外の事項については法的拘束力を有せず、単に指導、助言としての意味をもつにとどまるものである。いわんや文部省が本件のごとき具体的な学力調査の試験問題を作成し前記方法により学力調査を実施しその結果の報告を義務づけることは文部省の権限を踰越するものであり、行政権を以て不当に教育に介入し、支配するものである。これは教育基本法一〇条一項に違反する。

(四)  (本件学力調査の手続上の適法性について)

すでに本件学力調査が教育基本法に抵しよくし違法なものである以上、右学力調査実施の手続上の根拠とされた法律の適否まで検討する必要がない理であるが後記のように公務執行妨害罪の成否については諸説があるから更にすすんでこの点をも検討することとする。

前叙のように本件学力調査者は文部大臣(文部省)であるが、前掲昭和三六年度学力調査の実施要領謄本によると、その実施方法(手続)として文部省は地方教育行政法五四条二項に基いて大阪府教育委員会に対し右調査結果の報告を求め、右提出要求をうけた大阪府教育委員会が同法二三条一七号の教育に係る調査を行うという形で実施されたものである(検察官も主張を「本件学力調査者は教育委員会であつて、文部省ではない、文部省はただ右五西条二項によつて、その調査結果の報告を求めたにすぎぬ」と改めている)。

地方教育行政法五四条二項によると、文部大臣は教育委員会に対しその区域内の教育に関する事務に関し必要な調査、統計その他の資料又は報告を求めることができるとあり、他方同法五三条によると「文部大臣は同法四八条一項(都道府県市町村に対する教育に関する事務の適正な処理を図るための指導、助言又は援助)、五一条(各地方教育委員会間の連絡調整、教職員の交流と勤務能率の増進)、五二条(教育委員会の教育に関する事務の管理及び執行が法令の規定に違反しているとき又は著しく失当で教育本来の目的達成を阻害していると認められる場合の措置乃至措置要求)の規定による権限を行う必要があるときは教育委員会が管理執行する教育事務について自ら必要な調査をすることができ(一項)、又は右委員会に機関委任事務として指定事項の調査を行わせることができる(二項)」とされている。この両法条(五三条と五西条)を比較すると、右五四条二項は五四条一項の規定をうけ教育委員会等によつて既に自主的に行われた調査結果や統計その他の資料等を文部大臣において有効に利用し得るために、その提出要求権を認めた規定であることは文理上明白である。従つて本件学力調査の如く文部省が自ら発案しその実施手続一切を企画しその指揮命令により行われるものは同法条によつてはなし得ないところである。(なお文部省は右五三条によつても本件学力調査をなし得ないことは同条の前掲内容及び前記文部省の権限上より明白である。そして他にこれが手続上の根拠となる法律は存しない)

以上のとおり本件学力調査の実施は実体上も手続上も違法であるから被告人小巻の岩田に対する公務執行妨害罪は成立しない。

(尤も刑法九五条一項の保護法益は公務員によつて執行される公務であるから、その公務は同法条によつて保護されるに値するものでなければならず、そのためには公務員の職務の執行は適法でなければならぬことは勿論であるとしながらも、いやしくも公務員がその与えられた抽象的職務権限に属する事項に関し法令に準拠してその職務を執行したものである限り、たとえその法令の解釈適用において誤りがあつたとしても真実その法令に基く職務と信じてこれをなしたものであり、且つ一般の見解上もこれを公務員の職務の執行々為と見られるものであればこれに対して公務執行妨害罪が成立するとの説がある。しかし公務員がその職権を濫用する場合の外は、違法な公務執行の場合と雖も公務の性質上多くは右条件にかなつたものであるから、右の説は一見如何にももつともらしいがその掲ぐる公務執行妨害罪の「公務は適法たるを要する」との用語は有名無実といわねばならない。また右の如き事情があるからといつて違法な公務執行が適法化してその妨害に対し刑罰による要保護性を生ずるとの理はない。また公務執行が違法であつても、その瑕疵が軽微であつて、いまだその効力を失わぬものはその公務の執行を円滑にするため刑罰を以て保護する必要があるとする説がある。すなわちかかる公務は違法であつてもそれが円滑に行われる方が、これを阻止、妨害されることより生ずる害よりもまさるとする利益衡量の説である。しかしこの説を以てしても本件学力調査の如く憲法の精神に則つて定められた我国教育の根本法に違反し、且つ手続上も法律の根拠を欠くような重大違法をおかすものは到底刑罰による要保護性をもち得ないものと云わねばならない。しかし、斯様に公務執行妨害罪の成立するためにはその公務執行の適法であることを要件とすることから違法な公務執行に対しては何をしても罪とならぬと云うのではない。又左様な思想を生ずることを恐れるとすれば杞憂である。かかる場合公務執行妨害罪が成立しなくとも、その暴行、脅迫等が正当防衛等のため違法性を阻却しない限り、すべて暴行罪、脅迫罪、暴力行為等処罰に関する法律違反罪等により処罰されることは論を俟たぬところである。)

なお被告人小巻の本件行為は、判示事実から明らかなように、岩田校長の学力調査実施事務を阻止するためになされたものではなく同校長の術策を用いた学力調査の実施及びこれが抗議に対する同人の黙殺態度に憤激したこと等より加えられた暴行であるから、正当防衛とか正当行為等の問題を生ずる余地はない。又右暴行は本件全証拠によるも検察官主張のように「多衆の威力を示して」加えられたものとも認められないから、判示のとおり単純暴行罪と認定する。

(昭和三六年一二月二七日付起訴状第二の被告人大淵に対する公務執行妨害の公訴事実に対して判示第一の二の暴力行為等処罰に関する法律違反の事実のみを認定した理由)

本件公訴事実の要旨は、被告人大淵は、判示日時場所において大阪府教育委員会よりテスト立会人補助者として同校に派遣され、学力調査を円滑に実施するため、その実施状況の視察、報告等の職務に従事していた同委員会指導主事山田郁生を発見したので、ほか組合員数名と共謀のうえ、ただちに同人をとりかこみ、同人が右職務に従事していることを知りながら、多衆の威力を示してこもごも突き当る、こづく、膝で突き上げる、腕をつかんでひつぱる等の暴行を加え、もつて多衆の威力を示し、かつ数人共同して暴行を加え、よつて同人の右公務の執行を妨害したというにある。

第一四回公判調書中の証人山田郁生の供述部分、原勝巳の昭和三六年一一月一五日付検察官に対する供述調書(二通)によると、山田郁生は府教委指導課長原勝巳から、淀川工業高等学校におけるテスト立会人補助者を命ぜられ、テスト責任者、テスト立会人の補助、テスト補助員の職務の代行者のほか学力調査の進行状況や、調査の妨害その他重要な事項をその都度府教委へ報告するよう職務命令をうけていたもので、判示暴行を受けた際も、校長室内の前記岩田らと組合員の状況を確認して府教委へ報告するため校長室窓附近に近づいたものであることはこれを認めることができる。

しかしながら、公判調書中の証人山田郁生(第一四回、第一五回)、同小西康英(第二六回)、同雨森秀芳(第二六回)、被告人大淵和夫(第三一回)の供述部分を綜合すると、山田が判示暴行をうけた際同人が客観的に行つていた行動は、組合の動員者が多数集つていた中庭の校長室窓際附近において、組合員らと一緒に校長室内の状況を覗き見ようとしていたことである。そうして被告人は同所で山田をみつけたわけであるが、山田が少し前まで校長室内で、岩田と組合員との交渉に立会つていたところから、山田に対し「そんなところで何をしているのか」と声をかけ、これによつて周囲の組合員も山田が府教委の者であることを知るに至り、口々に、府教委の者が中庭の窓際のようなところからなぜ校長室を覗き込んでいるのか、中へ入れ等と云つて山田の行動を難詰するとともに、組合員の予期しなかつた方法で既に学力調査が開始された憤懣も加わり、判示のように山田をとりかこみ、暴行を加えるに至つたことが認められる。

右の事実から考えると、被告人を含む組合員が、当時、山田が府教委の一員として学力調査を実施するため、同校に来ているものであるという認識を有していたことは疑いがないが、被告人らが山田に対し、判示暴行を加えた際山田が職務の執行中であるという認識を有していたと認むべき証拠はなくむしろ右暴行理由等からみてかゝる認識はなかつたものと推測する方が自然であるから、更に右公務の適法性をみるまでもなく公務執行妨害罪は成立せず判示のように暴力行為等処罰に関する法律違反罪が成立するにとゞまる。

(昭和三六年一二月二七日付起訴状第三の被告人今村に対する公訴事実中、山田郁生に対する公務執行妨害の点につき判示第一の三の暴行の事実のみを認めたこと及び宇野登に対する公務執行妨害の点につき無罪を認定した理由)

一  本件公訴事実の要旨は、被告人今村正一は、昭和三六年九月二六日午後七時三〇分すぎ頃、淀川工業高等学校校長室で、ほか組合員数十名とともに、二組に別れて前記岩田および大阪府教育委員会よりテスト立会人として同校に派遣され学力調査を円滑に実施するため、これに立会うとともに、右岩田を援助していた宇野登を取り囲み、ついでほか組合員数名と共謀のうえ、多衆の威力を示して、こもごも前記職務に従事していた右宇野および前記山田に対し、同人らがそれぞれ右職務に従事していることを知りながら、右宇野に対しては同人が、腰かけていた長椅子を同人が腰かけたまま部屋の中央にひつぱり出し、右山田に対しては窓際にいた同人の右腕を掴んで室内にひきずり込もうとし、もつて多衆の威力を示し、かつ数人共同して暴行を加え、よつて右両名の右公務の執行を妨害したというのであり、検察官は、昭和三七年一〇月一九日付釈明言により右宇野に対する実行行為者は氏名不詳の組合員三、四名、右山田に対する実行行為者は被告人である旨釈明している。

二  山田に対する公務執行妨害について

被告人今村が山田に対し判示第一の三記載の暴行を加えた際山田が職務の執行中であつたことは、前記被告人大淵に対する場合と同様の理由でこれを認めることができ、又公判調書中の証人山田郁生(第一四回、第一五回)被告人今村正一(第三一回)の供述部分によると、被告人今村も前記大淵と同様山田が府教委の一人として学力調査実施のため同校に来ているものであるという認識はあつたものと認められるけれども判示暴行を加えた際、山田が職務の執行中であるという認識を有していたと認むべき証拠はなく、むしろ右暴行理由からみてかゝる認識がなかつたものと推測する方が自然であるから、更に右公務の適法性をみるまでもなく公務執行妨害罪は成立しない。又同被告人が「多数の威力を示し」あるいは「数人共同して」判示暴行を加えたものと認めるに足る証拠もないから、被告人の本件行為は判示のとおり単純暴行罪である。

三  宇野に対する公務執行妨害について

公判調書中の証人宇野登(第一七回)、同岩田林光(第一一回)、同中川督之助(第二五回)、被告人今村正一(第三一回)の供述部分によれば、検察官主張の日時、場所において、組合員数名が宇野の坐つていた長椅子を、宇野が腰かけたまま半回転させ、同室内で数メートル移動させたことが認められる。その経緯ないし状況は、判示第一の一記載のように、別の問題用紙で学力調査が開始され、そのことが組合員に判明したため、それまで校長室外にいた多数の組合員も校長室に赴き、岩田および宇野に対し組合員を欺瞞して調査を実施した旨抗議し、欺瞞の事実を認めさせようとしたが両名が殆んど沈黙して事態がいつこうに進展しなかつたため、そのうち組合員の中から「別々にしてやれ」という声が出るに至り、これに応じてそれまで近くで向きあつて坐つていた岩田と宇野をひきはなすべく、宇野の坐つていた長椅子附近にいた数名の組合員が直ちに右長椅子を動かしたものであり、被告人は「別々にしてやれ」という声がしたころ、岩田の坐つていた椅子の後方にある校長机の上に坐つていたことが認められる(前掲各証拠)。

右状況から明らかなように、当時校長室内にいた多数の組合員が、常に統一的に行動していたものともいえず、長椅子を動かした数名の組合員と被告人今村との間に右長椅子を移動させるにつき共謀ないし意思連絡が生じたことを推認するに足る証拠がない。

又本件全証拠によるも、長椅子が移動される以前に、被告人および組合員が二組に別れて宇野および岩田をとりかこんだ事実も認定できない。

したがつて被告人今村の宇野に対する公務執行妨害罪はもとより暴行罪も成立しない。

よつて同被告人に対する本件訴因は犯罪の証明がないので刑事訴訟法三三六条後段により無罪の言渡をする。

(昭和三六年一二月二七日付起訴状第一の一の被告人小巻に対する公務執行妨害の公訴事実について同被告人の無罪理由)

一  本件公訴事実の要旨は、被告人小巻は判示第一冒頭記載のとおり、九月二六日淀川工業高等学校に赴き、同校校長室で、テスト責任者岩田林光と学力調査について話合いに入つたところ、同日午後六時二五分ごろ、岩田が学力調査を実施するため、問題用紙を収納した紙包を持つて校長室を出ようとしたので、右紙包が問題用紙であることを知りながら、これを阻止しようとして直ちにほか組合員数名とともに岩田の行手に立塞がり、多衆の威力を示して岩田の持つていた右紙包を両手で掴んで引き、もつて多衆の威力を示して暴行を加え、よつて岩田の右公務の執行を妨害したというにある。

二  公判調書中の証人岩田林光(第一〇回)、同山田郁生(第一四回)、同中川督之助(第二五回)、同新宮良正(第二五回)、被告人小巻敏雄(第三〇回)の各供述部分を綜合すると、岩田校長が公訴事実記載の日時場所において、自分の机の上に置いてあつた問題用紙の包みを持つて、宇野、山田、被告人小巻の三名が坐つていた長椅子とテーブルの間を通りぬけて校長室外へ出ようとしたことおよびその時被告人小巻が長椅子から腰をうかし、同校長を抱きかかえるような格好で立ちあがつてこれを制止し、その際同校長が両手で前に持つていた問題用紙を掴んだことが認められる。

三  本件の争点は、岩田校長の右問題用紙の搬出行為が、学力調査を実施するためになされたものであるか否か、換言すると「職務行為」であつたのかどうかという点にあるので以下この点について考察する。

(一)  判示第一の一記載のとおり府立淀川工業高等学校における本件学力調査は、結果的には、岩田が校長室から搬出しようとした問題用紙によらず、予め調査実施教室に搬入されていた同一内容の別個の問題用紙により実施されたわけであるが、この間の事情について証人岩田林光は次のように述べている(第九回ないし第一三回公判調書中の供述部分)。すなわち本件学力調査は、あくまでも調査開始時間とした午後六時三〇分の直前に、自分が保管している問題用紙を校長室から搬出し、自ら調査使用教室に赴いてテスト補助員に交付し、右用紙によつて実施する方針であつたが、当時の教職員組合の学力調査阻止の態勢からみて、組合員等によつて、問題用紙を校長室から搬出することを阻止されたり、又調査教室に運びこむまでの間に阻止されるような混乱が生ずるおそれがあつたので、万一右のような混乱が生じた場合にも学力調査を完全に実施するため、たまたま同校には、希望校としての分と、指定校としての分と同一内容の問題用紙が二包府教委から配布されていたので調査当日給食を運ぶ際、右問題用紙のうち四〇枚宛四袋をあらかじめパンを入れる食函の中に入れ、四つの調査教室にそれぞれ搬入しておいたもので、第一次的には、あくまで自分の手許にある問題用紙で実施する方針であり、予め搬入しておいた問題用紙で学力調査が実施されたのは、被告人小巻らが公訴事実記載のとおり、同校長が問題用紙を搬出することを阻止したため、やむを得ず、第二次的方法としてなされたものであるというのであり、証人山田郁生(第一四回公判調書中の供述部分)、同小川一郎(当公判廷における供述)もこれと一部符合する供述をしている。

(二)  しかしながら他の証拠を仔細に検討すると、

(1)  学力調査実施日の前日である九月二五日の夜、岩田校長がテスト補助員等一六名の調査事務分担者のみを残してこれらの者に示した「テスト実施方法」と題する書面(昭和三八年領第五三一号証二二号)によると、問題用紙の教室への持込みは、「食堂にて食函に外見を工夫して四年各組の分に入れる。四年各組の担任は五時二〇分食堂より滝口先生と連絡しながら食函を教室に持ちこみ、給食の監督をする。第一時限の先生が来るまで教室にいてこれを渡す」と記載され、そこには岩田校長ないし他の者が直接問題用紙を調査教室に搬入することは予想されておらず、又その際岩田校長がテスト補助員等に対し、第一次的には校長自身が手渡す問題用紙で調査を実施する旨伝達したことを推認する証拠もない。

(2)  前記岩田の供述記載によると、食函に入れる問題用紙は、岩田校長の指示に従つて、九月二三日、校長室で小川主事と藤沢教諭の両名が指定校分、希望校分の二包の用紙から四〇枚づつのものを四組つくつて用意されたことが認められるのであるが、その際残部数が何部あるか、それが調査を受ける生徒数に足るものであるかどうかについて、岩田、小川、藤沢のいずれも一切確認していない。岩田供述のとおり、第一次的には右残部の用紙を校長自身が搬入するのであれば、右の事実は不可解である。

(3)  もつとも岩田の前記供述記載によると、同校長は学力調査当日である九月二六日の朝、調査対象である四年生の各クラス別生徒数を調べ、問題用紙の残部数が、生徒数に足りるかどうか確かめたところ、生徒数は各三九名、三五名、三〇名、三八名の合計一四二名であり、問題用紙は一四〇数枚あり、右残部で実施することが可能であつたと述べている。そうして同校長は、四枚の袋に各生徒数を記載しておき、同日正午すぎごろ宇野立会人立会のもとに右数字どおりの枚数を各袋に入れたというのであるから同人の供述によると残部数は少くとも一四二部はあつたことになり、又現に押収してある問題用紙も右供述どおり一四二部存在している。

ところで府教委から、同校に配布された問題用紙は、指定校分一五〇部、希望校分一四〇部とこれに各余部が入つていたことは、右岩田の供述記載および証人小川一郎の当公判廷における供述により明らかである。問題は余部の枚数である。岩田および小川は食函に入れる分の一六〇部を除いてなお残部が一四二部もあつたのは、それだけの余部が入つていたものと思うというのである。しかし昭和三六年度全国学力調査説明書(都道府県教育委員会用)(昭和三八年領第五三一号証七号)によると府教委において問題用紙を配分する場合には、約五〇人につき一部づつの余部を入れるよう指示されていたことが認められ、問題用紙の取扱いは学力調査の性質上きわめて慎重厳密になされる必要があるから、同校に配布された問題用紙の余部も右指示どおりになされていることは容易に推認でき、したがつて指定校分、希望校分各三部合計六部を超える余部が入つていたものとは考えられない。

そうすると結局同校に配布された問題用紙の総数は、二九六部であつてこれから食函用の一六〇部を除くと、残部数は一三六部しかないことは明らかであり、これが前記生徒数に不足することも又明らかである。もつとも前述のとおり押収してある問題用紙の枚数は合計一四二部存在しているのであるが、この点も食函に入れて学力調査を実施した用紙の未使用分の事後の処理が証拠上明らかでない(証人小川一郎の当公判廷における供述によれば、未使用用紙も綴つて一六〇部全部当日宇野立会人に渡した旨述べているが同人の問題用紙の枚数等に関する供述はきわめて転々としており、右の点についても信用できない。又調査終了後右用紙を受取つた宇野登の供述記載中には、右の点は全くふれられていない)以上、このことから直ちに校長室にあつた残部数が一四二部存在していたものとは認めがたい。

(4)  前記「テスト実施方法」と題する書面および岩田の前記供述記載によると、当日の調査開始時間は午後六時三〇分であり終了は八時と定められていたことが認められる。

右の時間に調査を始めるとすると、問題用紙の配布、落丁乱丁の点検、所定事項の記入その他に必要な時間を考えると、少くとも開始一〇分前である六時二〇分ごろには、問題用紙は各調査教室に搬入されている必要があることは岩田自身供述しているところである。又校長室から調査実施教室へ問題用紙を持つていくためにも何程かの時間を必要とするから、校長室の問題用紙で調査を実施するには、六時二〇分以前に校長室を出なければならないことは明らかである。

ところが証人山田郁生(第一四回)、同宇野登(第一七回)、同岩田林光(第一三回)の公判調書中の供述部分によると岩田校長が問題用紙を持つて校長室をとび出そうとした時刻は六時二五分をすぎており、しかもその直前である六時一〇分から一五分まで組合員との交渉が休憩に入つた際、岩田、山田、宇野の間で問題用紙の持出し時刻について話合われた(宇野立会人は、六時三〇分の直前に持ちだせばそこで混乱が生じ、その間組合員の焦点がそこに集まり、食函の用紙による調査開始がうまくいくのではないかという趣旨のことを述べている)というのであるから、岩田校長は、自分が校長室をとび出そうとした時刻が六時二五分ごろであつたことは充分認識していたものと認められる。

以上の諸点および岩田校長が組合側のいかなる阻止活動があろうとも同校は必ず学力調査を実施するとの意図のもとに綿密細心な計画をたてながら、校長室の問題用紙は比較的あつさりと組合員に示していることや、後述のように問題用紙を持ちだそうとした時の具体的状況がきわめて不自然である(ことさら被告人小巻の方へ向つて突進していつた感がある)こと等諸般の事情を綜合判断すると校長室にあつた問題用紙で学力調査を実施することは客観的にも不可能であり、又岩田校長も右問題用紙で調査を実施する意思は、はじめから有していなかつたものと認められる。

結局岩田校長の本件問題用紙の搬出行為は、組合員に対する一種のゼスチユアないしは欺瞞行為であつて、学力調査を実施するためになされたものということができないからテスト責任者としての同校長の職務行為とは認めがたい。そうすると刑法九五条一項の保護の対象となる職務行為は、本件で問題となつている場面ではそもそも存在していなかつたことに帰するから公務執行妨害罪は成立しない。

四  そこで次に被告人小巻の本件行為が暴行に該当するかどうかを検討する。

被告人小巻が岩田校長と接触した時の状況は、二で認定したとおりであるが、二掲記の証拠によると岩田校長は、被告人らとの話合い中に、問題用紙を手にしていきなり宇野、山田、被告人小巻の三名が坐つていた長椅子とテーブルの間を通つて出口の方へ走りぬけようとしたもので組合員はもとより宇野、山田等も予期しないような突然の行動であつたことが窺われ、又その時の岩田と被告人小巻との距離はせいぜい三~四メートルしか離れていなかつた(司法警察員武田博司作成の実況見分調書、第一〇回公判調書中の証人岩田林光の供述部分末尾図面(甲))からきわめて瞬間的な出来事であつたものと認められる。

そうして被告人小巻らが坐つていた長椅子とその前のテーブルとの間隔は非常に狭いにもかかわらず(山田の前記供述記載によるとテーブルががたがたいつていた旨述べている)岩田はわざわざその間を通つて被告人の方に向つて進んできたわけであるから、同被告人が制止しようとして立ちあがるのは自然であり、「腰をうかして自然中腰になつたときに岩田校長が自分のところへ来ていたので、抱きかかえるような、衝突するような格好になつた(同被告人の供述記載)」というのも右のような状況の下ではむしろ当然のことであつたと思われ、その際同被告人が岩田の身体に対し積極的に手をかけるとか押しかえすとかしたような状況は勿論、両者の身体がぶつかりあつたことを認めるに足りる証拠もない。

もつとも岩田が両手で前に持つていた問題用紙を同被告人が掴んだことは認められるが、右の状況も問題用紙を奪うとか暴行を加えるとかいうような状況ではなくむしろ岩田の突然の行動に対する瞬間的に生じた衝動であつたものと認められる。ところで刑法二〇八条にいう「暴行」は人の身体に対して直接に加えられる不法な有形力の行使を意味するのであるが、右にみた具体的な状況の下での被告人の本件行為は、いまだ岩田校長の身体に対して不法に有形力を行使したものとは解せられない。

そうすると被告人の本件行為は、暴行罪にも該らない。よつて同被告人に対する本件訴因は犯罪の証明がないので刑事訴訟法三三六条後段により無罪の言渡をする。

(昭和三七年五月一九日付起訴状第二の被告人寺本に対する公務執行妨害、傷害、建造物侵入の公訴事実について同被告人の無罪理由)

本件公訴事実の要旨は、被告人寺本敏夫は、被告人大淵とともに判示第二記載のとおり、再三、八尾高等学校に赴いていたものであるが、同校定時制生徒会会長平野耕作等十数名の生徒等とともに昭和三七年二月一五日午後四時三〇分頃からかねて右生徒会より提出されていた要求事項を討議するため、同校定時制職員会議が開かれていた同校定時制教務室前に集まり、早く右要求に対する回答を出すよう要求していたところ、同職員会議では始業時間である午後五時三〇分に至るも、討議を終了するに至らなかつたため、とりあえず生徒の出欠をとることを決定し、午後五時四五分頃前記細木孝雄が右職員会議の決定を生徒に伝達了解させるため、同教務室入口扉を開き、代表として前記平野を呼び入れた際、被告人寺本は、右教務室入口に「会議中につき入室禁止」と記載した紙札が掲示されていたのみならず、右細木が入室禁止を告知し、かつ同人が扉を閉じ、身体を扉によりかからせて入室を阻止していたのにかかわらず、「他のものも入れろ」と怒号して、やにわに右扉を強く押し開けて同人の左額部に激突させる暴行を加え、同人の右公務の執行を妨害し、右暴行により同人に対し治療約一〇日間を要する左額部打撲裂傷の傷害を負わせ、さらに同室内に入り込みもつて同校教頭沢井浩三の看守する同教務室に故なく侵入したというにある。

一  公判調書中の証人細木孝雄(第一九回)、同小林弥毅(第二一回)の各供述部分、医師小林弥毅作成の診断書によると公訴事実記載の日時ごろ、教務室出入口の扉が細木教諭の左額部に衝突し、その際細木が公訴事実記載の負傷をしたことが認められる。

扉があたつた前後の状況について被害者である細木孝雄(第一九回、第二九回公判調書中の同人の供述部分)は、(一)平野生徒会長を呼び入れたとき学年代表の永野も教務室に入り、引続いて被告人寺本が入ろうとしたので、扉を押して閉めだしたところ、同被告人は「開けろ、入れろ」等といつて扉を叩いたり、蹴つたり金具をガチヤガチヤいわせたりして中へ入ろうとし、扉をへだてて押しあいになつた。(二)扉を叩いたり押したりしていたのは、大勢で押しかけてやつているような状況ではなくざわざわという声はしていたが、背の高さの辺と足の辺を叩く叩きぐあいで一人だということがわかつた。(三)扉の把手のところをつかみ左肩で扉を押えていたが外から押すため扉が開いたり閉つたりしていたのでその下部を足でつつぱつたところ扉が開かなくなつた。そこで平野らの方をむいて職員会議の決定事項を伝えようとした瞬間、急に把手がくるつとまわつて扉が開き左目のあたりにあたつた。(四)一瞬目がくらみ、目をひらいたとたんに同被告人の顔がぱつととび出してきて「お前からあたりやがつて」といい、その際同被告人は一歩ぐらい教務室内にふみ込んだ状態ですぐ外に出たが被告人の後につづいてくる者は誰もいなかつたと述べ、したがつて扉が開き負傷した際、扉を押したり叩いたりしていた者は同被告人一人であり、扉をおし開けた者も同被告人以外にありえないというのであり、公判調書中の証人岩城国武(第二二回)、同上原厚生(第二三回)の各供述部分、西田弘の検察官に対する供述調書中にも一部右細木の供述と符合する供述がなされている。

しかし他方右の状況について被告人寺本は、(一)平野、永野の二人が入つてから二、三分ないし五分くらいして扉が細木さんの顔にあたつたという事態が生じた。その時自分は、生徒が入つたから職員会議の決定が出たものと考え、その内容を知りたいと思い、扉の前にいたが生徒が多数いて身動きがとれないような状態であつた。(二)生徒や自分は「入れろ」とか「早く回答を出せ」等といつて扉をたたいたり押したりしていた。その時の自分の位置は扉にむかつて二列目か三列目で手をのばせば扉に手がとどくかとどかないくらいの距離のところであり、扉の左側の把手の前附近には女生徒の佐原、その右側の扉に接する位置には田中という生徒がおり、又自分の右側には氏名不詳の背の高い生徒がいた。(三)平野らが入室して後若干扉が動くような状況があつたが同人が入つてから五分くらいたつたとき、誰かが開けたのか押したのか扉が開きしばらくして細木さんが上半身をのりだすような格好で顔を出し、自分の方をみて「こんなになつたぞ」といわれた。扉が当つたのはこの時でその際自分は扉に手をかけていなかつた。(四)細木さんが顔をひつこめた後、細木さんの状況がどうなつたのかと思つて前に出て教務室内を覗いたところ、細木さんは額に手をあてており、「どうしたんだ」と声をかけると、「こんなんや」といつて傷をみせたので自分は「あんたが悪いんや」と答えた。その際に自分は上半身ないし片足くらいは室内にふみこんでいたものと思うと述べており細木の供述との間には顕著な差異がある。

二  前記細木の供述記載によると、細木が本件発生の直前平野生徒会長を呼び入れようとした際、扉の外の廊下には多数の生徒が待つており、廊下の壁にもたれていた平野とともに、永野、被告人寺本の両名が前に出て来て扉の前で押しあいになつたというのであり、又当時既に約束の回答時間を経過していたという状況から考えると、右三名だけが扉の前に来たものではなく、他の生徒達も教務室入口附近に集つてきていたであろうことは容易に推認できるところ、(一)本件発生当時、教務室内で細木教諭と応待していた平野耕作の供述部分(第二七回公判調書中)によると、扉が開いて細木に当つたと思われる瞬間、佐原という女生徒の姿が細木の肩ごしにみえたこと、その直後に細木が扉から顔を出し被告人寺本に対し「あんたにやられたんや」といつたことその時扉の近くにはつめかけるようにして多くの生徒がいた旨述べており、(二)第二七回公判調書中の証人田中良和の供述部分、証人木原くに子(旧姓佐原)に対する当裁判所の尋問調書を綜合すると、平野、永野の両名が教務室へ入つた際、右田中、佐原の両名も室内へ入ろうとしたが扉を閉められて入ることができず、扉の最前列で扉にむかつて左側に佐原、右側に田中がいたこと、扉は生徒の殆んどが押しているような状態で、後から扉を叩く者もあり、何度か扉に頭をうちそうな格好になつたこと、扉が開いた際、佐原が顔をのぞかせた等、被告人寺本の前記供述と略々一致する供述がなされており、これらの証拠からすると、扉が開いて細木に衝突した時の状況が、前記細木の供述どおりであるかどうかについて疑問が生ずる。

もつとも細木の前記供述記載によると、佐原、田中等の生徒が教務室入口附近で同人を押し、教務室内に入ろうとした事実はあるが、これは扉があたつてしばらく後の出来事であつたと述べている。すなわち、細木は、扉があたつた後、平野の要求に従い、出席を生徒総会の席上でとるか教室でとるかについて相談するため、再度平野等を教務室外へ出し、職員にはかつたところ、やはり教室でとることに決定したので、右決定を伝えるため再び平野を呼入れようとした際、他の生徒達がみんなに開かせるよう要求したので、教務室外に出て扉を自分の後で閉めた後、生徒達に右決定を伝えたところ、これを不満とした佐原等が「細木先生ではあかん」といつて細木を押し、教務室になだれこんだというのであり、右供述からすると、田中、木原等の前記供述はその時のことではないかという疑問もなくはない。しかし前記田中の供述は、平野、永野の両名が教務室の中に入つた直後、しかも扉が細木によつて閉められている状況を前提としてなされており、又細木が室外に出て扉を閉めたうえ生徒に職員会議の決定等を伝え説明したことや、その際、佐原等の生徒が教務室になだれこんだということは、細木の右供述が唯一のものでこれに符合する証拠は他にないから、被告人寺本や田中、木原等の前記供述が、細木が負傷した以後の状況を述べているものとも断言できない。

以上要するに、扉があたつて細木が負傷した際、右扉を押し開けた者が被告人寺本であると断定するにはなお証拠が充分でなく、ひいては同被告人が公訴事実記載のように細木から入室を拒否されていた際に扉を押し開けて教務室内にふみこんだものであるかどうかについても疑問が残る。よつて同被告人に対する本件訴因はいずれも犯罪の証明がないので刑事訴訟法三三六条後段により無罪の言渡をする。

以上の理由により、それぞれ、主文のとおり判決する次第である。

(裁判官 吉益清 石川正夫 川端敬治)

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